初の「公共の利益のための通常実施権」か? 結局、和解で実施権が認められる
今回の知財ニュースは、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の関連特許に関して、経済産業大臣に請求されていた「公共の利益のための通常実施権の設定の裁定」(特許法第93条)について、5月30日に当事者の間で和解が成立し、条件付きの実施権が認められることになった、という事件についてです。
今回の事件は、上図のように、iPS細胞由来の網膜細胞を世界で初めて患者に移植した、元理化学研究所の高橋氏(形式的に「ビジョンケア」と「VC Cell Therapy」)が、網膜細胞の製造方法の特許(特許第6518878号)を持つバイオベンチャー「ヘリオス」などに対し、特許技術を使わせるよう経済産業大臣(特許庁)に裁定を求めたというもので、今回、条件つきで(臨床30例まで)高橋氏側の特許使用を認める、という和解が成立した、というものです。
特許法第93条の「公共の利益のための通常実施権の設定の裁定」とは、公共の利益のために「特に」必要であるときに、実施希望者が特許権者に通常実施権の許諾の協議を求めた上で、その協議が成立しなかった場合等に、経済産業大臣に裁定請求を行い、特許権者の意思に関係なく、強制的に通常実施権が認められる、というものです。
現時点で、この実施権が日本で認められた事例はありません。これは、公益上の必要に基づくとは言え、国民の権利を制限し剥奪することは、必要最小限にとどまるべきとする、私的自治を原則とする日本国憲法や民法の思想が反映された規定であることから、規定の運用においても、この趣旨が及んでいるためだと思います。
もっとも、今回の事件の経緯を知ると、特許庁はもっと早く事件を解決する動きを取るべきだった、と思います。なぜなら、高橋氏は理化学研究所時代からヘリオスの立ち上げにも関わったそうなのですが、ヘリオスの治験に向けた動きが遅かったため、独立した上で、2016年から複数回に渡り実施権の許諾を求めていたそうです。しかし、許諾が得られなかったため、2021年に裁定を求めたのです。特許庁は、これを受けて、さらに3年間に渡り「工業所有権審議会発明実施部会」を22回も開催したものの、結局、特許庁としての最終的な判断を下すことなく、両当事者の和解を仲介するという形でこの事件を解決しました。
失明された患者さんの立場から考えると、約8年の空白期間は大きいです。特許庁においては、この患者さんの立場を考慮して早期に事件を解決して欲しかったです。